賄賂
「モスクワ行きの切符はありません。でも、私の力でなんとかなるかもしれません」 航空会社の窓口で、サハリン美人が意味不明な事を言ってにやっと笑った。なんのこっちゃ?と、首をひねっていると助手のジェーニャ君がこうささやいた。 「口紅があれば、チケットを用意するということですよ」 「なーるほどね」と、うなづいてこちらも「フショーパニマーユ」(なぁんもかんも、わかってまんがなぁ)。 こんなこともあるだろうと、いつもリュックに「贈り物」という名前の「賄賂」を用意している。といっても、日本製の格安口紅(せいぜい300円か500円程度のものだが…)を一本取り出した。 「いや、それじゃだめですよ」 「だって口紅って言っただろう」 「彼女は予約の担当で、切符を実際に発行する担当の女性にも必要なんですよ」 そのとき、ロシア外務省へ記者証と数次ビザを受け取りに、至急モスクワへいかなければならない状況だった。悠長に席が確保できるのを待っているわけには行かなかった。この国では待たされるのは当たり前だが、お役所の官僚たちはヒトを待たせても、自分が待つと言うことはない。 「ええい、持ってけ泥棒め」と、つい悪態も付きたくなる。 |
こんなこともあった。
知人のロシア人が「今度、日本車を買うんだ」と、うれしそうにしていた。 「へぇー免許持っていたの。運転するの見たことなかったけど」 「ナルマーリナ(問題ない)。15万ルーブルで大丈夫だよ」 彼が言うのは、それで免許をサハリンの公安当局筋から買えるということだ。 まったく、日本車を走らせてるロシア人の何割が、正規の免許証を持っているのか疑いたくもなる。 「ちょっ、ちょっと待ったれぇ。うそはいつかばれるでぇ。第一、お天道様も神様も見ているでぇ」 「ばれへん。ばれへん。大丈夫やって。ロシアは広いから、神様もサハリンまでは目が届かへんね」 「そんなあほな。こんな交通事故の多い国でそんなんやってたら、事故統計は鰻登りになるやんけ」 「ロシアの統計なんて信用しちゃあかんがなぁ。政府の都合でいくらでも数字を書き換えちゃうんやから。それにロシアではなぁ、試験なんかまともに受けていたらなんぼ時間があってもたらんねん。みーんなぁやっているんや。大丈夫やて、運転は軍隊で覚えて自信があるんや」 「そやけどなぁ、時間がかかるとか、みーんながやっているとか、そういう問題とちゃうやろ。事故でも起こしたら相手にどない責任とるねん。ロシアじゃ保険かてまともにあらへんやろ。日本なら…」 「また日本かいな?。ここは日本とはちゃうってなんどもいうてるやろ。ここはなぁ、ロシアなんや。なにぬかしてけつかんねん。ボケがぁ!」 |
正直言って、漫才の掛け合い風に書くのがその時のあほらしさを一番的確に表してくれると思う。まぁ、議論をふっかけた相手が悪かったのかもしれない。一事が万事この調子だといったら、それは言いすぎだろうけど、しかし、コネと賄賂がロシアの潤滑剤になっているのも事実。 流通が整っていなくて必要なものが手に入りにくい。しかもやたら規則だの非合理的な社会規範が多い。何らかの特権を持たないと暮らしにくい。ロシアでは、庶民はコネと賄賂に頼らざるをえないようだ。 実際、ロシア人でさえそうなのだから、まして外国人は賄賂やコネもなしでは、暮らしにくくもなる。 しかしながら、ロシア人には「ほどこしは受けない」という誇り高い気質がある。賄賂が横行していると言っても、ロシア人がみんな物欲しそうにしているなんて考えたら大間違いだ。 反面、「豊かな外国人が、貧しい人にサービスするのは当然」という考え方もある。どの民族でも個人差はあり、これがややこしいのだが、日本だって建前と本音が乖離しているのだから、外国人から見たら相当ややこしいはずだ。 しかし、いずれにせよ真実一路の生真面目な人には、大変面倒な社会であることは間違いない。要領の良さと、人望とネットワークを持つことが生きるのに欠かせないといった大げさだろうか。 ![]() ユジノサハリンスクのある日本人駐在員が、日本から野菜を送ってもらった事がある。サハリンでも野菜は手に入るのだが、季節によってはけっしていつも豊かに流通しているわけではないからだ。 「なにか欲しいものはないか?」と聞かれ、つい「野菜が欲しい」と言ったら送ってくれることになったという。 空港の税関から野菜到着の連絡を受けたその駐在員は、品行方正な善意の人だった。賄賂など考えず、正規の手続きを踏んだ。その結果はどうなったか。 関税の問題は、比較的スムーズに済んだ。しかし、生の野菜となると、植物検疫の問題がある。生野菜を外国へ送る方にも問題はあるのだが、彼は荷物の中味が生野菜である事を正直に申告した。官僚社会のロシアでは、規則通りに行うという事は、えらく時間がかかるという事を意味する。もっとも日本だって、植物検疫はえらく厳しいが。 面倒くさい書類をそろえて、あちこちのはんこをもらい、検疫を経て日本から送られた野菜がようやうく彼の手許に届いたのは、2週間後。キャベツは黒ずみ、白菜も黄色い野菜屑になっていた。 低温倉庫で保管するわけでもなく、こうなるのは税関だってわかっていただろうに。そのことは説明せずに手続きをきっちり踏まえさせるというその教条主義が怖い。「検疫の期間中に野菜は傷むから無理ですよ」とは、一言も言わず、関税はしっかりとるというのではあんまりだろう。 それだけにロシア暮らしが長くなると、日本人の考え方も自然と変わってくる。 事情を良く知っている商社マンなどのベテラン駐在員は、日本から荷物が届く日をキャッチすると、その日の出番の税関職員を調べる。自宅を訪ねて、ロシアでは貴重なカレンダーやウオトカなどを手渡し、「よろしく」と、仁義を切るそうだ。 だからもし、何かのときに、役所の人間に「ニェット。それはだめだ」といわれたら、「賄賂を要求されているのだな」と考える駐在日本人さえいる。 ロシアではよく頼み事を受けることがある。「金を払うから日本の○○が手に入らないか」と。もちろんきちんとお金を払うつもりでいる人も決して少なくない。ただ、不快な思いをしたくないのであれば、はじめからプレゼントする覚悟で引き受けるか、逆にはっきり断わる方が、疑って相手に失礼な思いをさせるよりは、ずっとすっきりする。 もっとも、たまたま忙しくてすぐに対応できないため断ったところ、「あいつはこんなこともしてくれないのか。不誠実だ」と恨まれたケースもある。持ちつ持たれつが、ロシア的浪花節でもあり、そこが難しいところだ。 ある日本食レストランが、開店前に保健・衛生当局の検査を受けた。ここがサハリンとは思えない、日本情緒にあふれたきれいな店だった。 だが、検査官は「こんな不衛生な店には営業許可はだせない」と言い放った。 理由が振るっている。 いわく、小上がりのお客用に用意したサンダルは、「不特定の人間が履くのだから毎回消毒できるようにしなければならない」。 トイレには、「履き替えのサンダルを置かなければならない」などなど。靴を脱いで上がる料亭ではないのだ。普通のレストランでは、自分の靴をはいたままで客席にもトイレにも出入りすることはおとがめなしなのに、なんでここまで要求されるのか?ほとんど嫌がらせのようなものだ。 「ダンスして、ほこりの立つ中で飯を食わせているロシアのレストランとどっちが不衛生なんだ」と、レストランの幹部。だが、怒ってもしょうがないのが現実だ。 レストラン関係者の一人、Aさんは「消防局には、カラーテレビを贈ったからなんにも文句がでなかったが、そういえば保健所にはなんにもやらなかったからなぁ」と、冗談混じりにぼやいた。 この話にはさらに落ちがあった。Aさんは「せっかく来たのだから」と、検査官に一応「うちの料理を食べていきませんか」と、儀礼上声をかけた。するとあろうことか彼らは、自分たちが「不衛生」と決めつけたレストランのテーブルに付き、なんの遠慮もなく「うまいうまい」とたいらげて、喜んで帰ったという。 「不衛生だから営業許可を出さないと、自分たちが決めておいてなって連中だ」 腹の中でののしりながら、そのレストラン関係者一堂は、笑顔で検査官をお見送りしたのはいうまでもない。 ![]() さらにもうひとつ。 店の作りが気に入った保健所の幹部は、自分がポロナイスクで開く喫茶店の設計を考えてくれとまで言ってきたそうだ。「もちろん金は払う」というのだが、Aさんには「ただでやってくれとしか聞こえなかった」。 もっとも、いくら賄賂社会だといってもおおっぴらに賄賂が手渡されているわけではない。あるマスコミの記者が北方領土へ渡ろうとして、国境警備隊に咎められた事があった。ロシア側としては、外国人登録の手続きが不十分だというような主張だったらしい。 日本のマスコミがロシア側のビザを取得する事の是非論はともかくとして、その取材記者は「ここで帰るわけにはいかない」と考え、なにがなんでも島で取材してやろうと思う余り、やってはいけない事をした。 衆人環視の白昼、ドルをちりかみで包み、おひねりのように手渡そうとしたのだ。もちろん国境警備隊の将校は怒った。 「私を買収しようというのか」 へたをすればこれで御用だった。そのうえ国外追放だろう。 幸い、通訳のとりなしと「入域手続きでお手数をかけたおわびのつもりだった」という言い訳を相手側が受け入れてくれたから、その取材記者は今、日本で元気に仕事をしている。 ただ、こうして賄賂の話を書きつづると、ロシア人がだれでも賄賂を要求するかのように受け止められるかもしれないが、そういうわけではない。 ロシア人は、誇り高い人々でもある。清廉潔白な人は決して少なくないし、かつて日本に進駐した米軍兵士のようにチューインガムやチョコレートを子供にばらまくような行為をしたら、白い目で見られたり、怒鳴られることもあるだろう。 私がサハリンでの取材中、取材相手に記念品を渡そうと考えたときも、ロシア人の助手は「取材を終えてからお礼の気持ちとして渡した方がいいですよ」とアドバイスしてくれた。 確かにいきなり物で人を釣るような印象を与えるのは良くない。ロシア人と日本人とは、考え方に違いがあるのは確かだが、少なくとも日本人に対して失礼だと思うような振る舞いはロシア人に対してもすべきではない。それは日本人自体が恥をさらすようなものだ。 |