★はるかなシベリア
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サハリン州国立公文書館の資料は、多くは第22収容所の内部文書で、ハバロフスクの内務省捕虜管理局地区本部からの秘密指令や報告などがあった。あまり上質ではない紙に達筆なペン字、歪みの目立つタイプ文字などが記されていた。様式はさまざまだが、大半に「マル秘」を意味する「セクレートナ」の判が押されていた。その事務的な、あまりに無機質な表記を読み続けると、異郷に捕らわれ、過酷な月日を送った人々の無念さ、苦しい思いが余計に忍ばれた。 そんな文書の中に2枚つづりの一覧表のようなものを見つけ、私はハッとした。 それは収容所で亡くなった人たちの死亡原因をまとめたものだった。オハの墓地にあった墓標の数と同じく、64人分のリストだ。そこには、ロシア語表記で書かれた名前と、誕生年、死亡日、埋葬日、死亡原因(ただ、死亡原因について触れられていないケースも半数近くを占めていた)などが記されてあった。ただ、名前の一部は、聞き間違いではと思える不自然なものもあった。 当時、すでにゴルバチョフ旧ソ連大統領が抑留中に亡くなった日本人のリスト3万7千人分(実際には約6万人が抑留中に亡くなったとされている)を日本側に公表していた。だが、死亡原因にまで触れたものは公表されていなかった。 リストには結核、肺炎、栄養失調などの記述が目立つた。厳寒期の森林伐採など、過酷な労働の割に粗末な食事で体力が著しく損なわれた事を物語っていた。実際、他の資料では、ひもじさから食料を盗み、食事抜きで重営倉入りとなった抑留者の記録も多数残っていた。 さらに作業中の事故死も9人分が明記されていた。1946年7月27日の指令第251号によると、「労災の死亡率は高く、今年初めから現在に至るまで重大事故は15件あり、うち7人が死亡。この大部分は伐採による」とそっけなく記されていた。 だが、もっと悲惨なのは、警備のソ連兵によって殺された3人だ。その3人とは死亡日が一致しないのだが、別の記録資料では「46年6月25日の事件で、イワン・コンドルという兵士が理由も無く、撃ち殺した。武器の違法使用だ」とあった。 こうしたリンチまがいの行為で、死亡理由も記されないまま帰らぬ人となったケースも少なくないのではと、私は戦慄を感じた。 どんな事情で亡くなったのか、死因を知りたいと思う遺族も少なくないのではと私はその時思った。しかし、中には死因を伏せざる得ないケースもあった。ご本人や遺族のプライバシーを考慮して、この一覧表は結局、紙面には掲載しなかった。 このほか「反ファシズム教育宣伝」が盛んに行われる中、選出したアクチブ(活動家)についての調書や研修、給与支払いに関する指令もあった。 逆にアクチブに匿名の脅迫状が送りつけられたケースの報告書など、日本人の間の反目を示す文書もあり、ソ連当局の分断統治を思わせる。 一方、以外に少なかったのが、写真だ。 全部合わせても数十枚足らず。当時としては、写真はいまほど普及はしていなかったにせよ、「この程度とは」とがっかりした。 それでもソ連軍の占領後、捕虜となり、ポロナイスク(敷香)付近に集結させられた多数の日本兵の様子や、ホルムスク(真岡)に上陸するソ連軍、旧国境付近戦地に残された日本軍の野砲、ソ連の将校に整列させられた日本の警官か鉄道職員と思われる写真、さらにソ連軍の大佐と語らう日本兵の写真などが興味を引いた。これらの一部は、95年2月28日付の北海道新聞紙上で特集として紹介した。 すると思いがけず、読者から反応があった。 戦後50年を経て、1枚の写真が歴史を遡る役目を果たしてくれた。 ソ連軍の大佐を囲むように写っている日本兵の中の1人は自分だという。 後志管内積丹町美国船間の小笠原斉さん(83歳)。写真は、日本が降伏後、落合でソ連軍の政治部長、ルシコフ大佐が話すのをほかの日本兵とともに耳を傾ける場面となっていた。 小笠原さんは、蘭泊(ヤブロチヌイ)に妻のあいさんや子供たちを残し、1945年3月に召集されたが、落合で武装解除され、その後、大泊(コルサコフ)経由でナホトカへ送られて46年11月まで抑留生活を送った。家族も47年6月に引き揚げて来て、無事再会を果たしたが、「今はもうソ連を恨む気持ちはないが、シベリアでは不条理な目に遭った」。 乏しい食料、真冬の強制労働で無くなった戦友が身ぐるみはがされて埋葬された辛い思い出などが、再びよみがえったのだった。 雪解け期とされたフルシチョフ時代の50年代半ば、サハリンでも大陸でも収容所は相次いで閉鎖され、その内部文書は公立文書館へ移された。一部はモスクワやハバロフスクの公文書館にも移されたものと見られる。その中にはさらに、収容所の実像を示す内容が秘められているのかもしれない。 |
★旧ソ連軍が進駐後のサハリンの様子を物語る写真が、
サハリン州国立公文書館に保管されている。その一部を
紹介します。
![]() ソ連兵と日本人の家族=ユジノサハリンスク(豊原)市内 |
![]() 旧国鉄職員か警察官と見られる男性に尋ねるソ連軍将校 =ポロナイスク(敷香)とみられる |
![]() 警察官と思われる二人とソ連軍将校 =ポロナイスク(敷香)らしい |
![]() 集結させられた日本軍兵士や警察官らとみられる。 抑留生活は、ここから始まったといえるだろう。 後ろの建物は、敷香の役場らしい。 =ポロナイスク(敷香) |
![]() 上の写真と反対方向から撮られた写真 =ポロナイスク(敷香) |
![]() 収容所へ向け、整然と行進する日本兵ら =ポロナイスク(敷香) |